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「「諜報の神様」と呼ばれた男」を読んで考える

書籍名 : 「諜報の神様」と呼ばれた男―情報士官・小野寺信の流儀
著作者 : 岡部 伸
出版社 : PHP研究所
発売日 : 2023/2
ISBN : 9784569902975

残念過ぎる、日本版『イミテーション・ゲーム』 (2023/09/10)

情報機関について何冊か本を読んだ。その中の一冊として、この本『「諜報の神様」と呼ばれた男―情報士官・小野寺信の流儀/著:岡部 伸』を読んだ。

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Photo:Unsplash

兎に角、情報量の多い本である。文庫本で400頁ほどだが、小野寺信について詳細に書かれている。戦時中の情報武官というと、明石元二郎がまず思い浮かぶ人も多いであろう。しかし、小野寺信について「こんなことにも関わっていたのか」と改めて関心を抱いた。この本『「諜報の神様」と呼ばれた男』ではヨーロッパの各地に深く根を張った小野寺についての余りにも多くの逸話が書かれているのだが、その中の一つ、暗号について考えてみようと思う。人間を媒介とした諜報活動である「ヒューミント」の分野で活躍した小野寺であるが、通信傍受などに関する諜報活動である「シギント」の分野でも影響力を発揮していたことが興味深い。

しかし、重要なことはニューギニアで暗号書が「盗まれる」まで日本陸軍の暗号は解読されなかったことである。ということは世界最強を誇ったドイツのエニグマと同様に日本陸軍の暗号も難解だったことになる。陸軍が、ポーランドの協力の下、軍部をはじめ、数学者、言語学者など優れた知性を集めて考案した暗号を「世界一難解だ」と自賛していたが、それもある意味では的を射ていた。

連合国側は、日本が外交電報に使った暗号や、海軍の暗号はかなり早い時期に解読していたが、陸軍の暗号はなかなか解読できず、日本が玉砕した戦地で暗号書を入手することでようやく解読に至ったというのだ。その陸軍の暗号には、小野寺が深く関係を築いたポーランドの協力があったというのだ。ヒューミントの天才はシギントにも深くかかわっていたのだ。

連合国側が、ドイツの暗号を解読することに大変な労力を注ぎ込んだことは、コンピューターの父、アラン・チューリングの活躍を描いた映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』などで多くの人が知るところだろう。解読の困難さや、解読後の情報の運用などについても描かれ、見た人は深く考えさせられたと思う。しかし、そのエニグマの解読にもポーランドが関わっていたというのだ。

ポーランドは大戦前の一九三二年頃に初期型コンピュータの原期である機械式の暗号解読機ボンバを作製、初期型「エニグマ」暗号の解読に成功する。そのボンバの複製品と解読方法をイギリスとフランスに提供。イギリスは、これをもとにチューリングらが改良強化された「エニグマ」を解読するに至ったのだった。

知られざるシギント先進国のポーランドと日本を小野寺は繋いでいたということになる。さらに、これだけではないのだ。以前から、陸軍だけが、米軍の暗号を解読していたことについても不思議に思っていた。世界の天才たちが全力を尽くし、各国がしのぎを削った暗号の世界で、米国の暗号が稚拙であるわけがない。日本にも映画『イミテーション・ゲーム』のようなドラマがあったのではないかと思っていた。

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Stockholm/Photo by Bru-nO via Pixabay

(一九)四三年、東大数学科の名誉教授・高木貞治(ていじ)という世界的権威の数学者の協力を仰ぎ、天才学者らを集め、小野寺がスウェーデンで入手したクリプト社の暗号機「クリプトテクニク」を改良して四四年にアメリカの暗号の一部を解き始めた。

なんと、ここでも小野寺が関わっていたのだ。やはり日本にもすごいドラマがあったのだ。でも日本では、結局いつもの通り、現場では多くのことが機能しているのだが、上層部が全く機能していなかったという終わり方となる。ここでどれほどの命が散っていったのかと考えると、残念という言葉では表現しきれないほどの残念な映画、日本版『イミテーション・ゲーム』となってしまうことを改めて思い知らされる。

ただし連合国がブレッチリーパークの存在を明かさず、シギントで暗号が解読され機密情報が筒抜けになっていることを全く知らなかったため、外務省、陸軍、海軍ともに暗号の抜本的な改良をしなかった。海軍では、山本長官機撃墜後、「暗号が解読されていたのではないか」との疑問が浮上したが、「解読されるはずない」と独りよがりの希望的観測を結論とした。官僚組織が硬直して情報戦に対する感性を欠落していたのである。

暗号に関する部分について考えてみたが、これらのエピソードは小野寺の活躍のほんの一部である。この本『「諜報の神様」と呼ばれた男』には、小野寺の活躍がこれでもかというくらいに書かれている。戦時中に活躍した情報武官というと明石元二郎が有名で、なかなか小野寺信は知らない人も多いのではないかと思うが「こんなことにも関わっていたのか」というのが読んだ感想である。そんな中に面白いエピソードが書かれていた。機関誌「偕行」一九八六年三月号を引用し次のように綴られていた。

「実は、それが私がずるずると情報関係に引っ張られた元になったんです。なにも知らない田舎っぺの少尉がシベリアヘ行きまして。頭が若いから覚えやすいし、だんだん興味を持って。一年間、暇があるごとにロシア人の家庭で、きれいな女の子のいるところを選んでね(笑)。勤務後に出かけて行ってロシア人からじかにロシア語を習った」

Onodera Makoto

Museum Vest, section Fjell festning (Norwegian: Museum Vest, avdeling Fjell festning), CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons

こんなところでも人間力を磨いていたのかと思うと同時に、運命も「諜報の神様」へと導いていたのかと感心する。戦後は情報機関に関わったという記述は他の本でも見つけられなかったので、残念ながら、公の機関としては小野寺の生きざまを受け継ぐ機関はないようである。今、徐々に「新たな戦前」を連想させるニュースが増えている。かつては小野寺のように優秀な軍人が大勢いた。それでも余りにも稚拙な上層部が、塗炭の苦しみを庶民にもたらした。今、優秀な軍人となる人材は絶滅しかかっているのではないかと思う。上層部がどんなに稚拙であっても、それに従う人材ともいえないような人々が集う国へと成り下がってしまったように思う。永遠に次の戦いから解放されるというようなことはないであろう。そうなると滅んだ後に何ができるか、それが問題なのかもしれない。

最後に、私たち庶民にも分かり易く小野寺の功績を極めて多岐に渡り教えてくれた本であるが、傾向として感じた部分を残しておこうと思う。

しかし、小野寺の足跡を辿っていくと、本来、諜報とは国家のために尽くす愛国心から行なうもので、人と人とのつながりの産物であることがわかる。これに対して、スノーデンは「国家や民族が存在しなくても、人類は生きていくことができる」という素朴なアナーキズム(無政府主義)を信じたハッカーで、歪んだ正義感に目覚めた末の暴露だった。

著者の岡部氏は、小野寺の素晴らしさを伝える一方で、元CIA職員のエドワード・スノーデンについて触れている。その記述についてなのだが、賛否分かれるスノーデンの功績を「歪んだ正義感」と言い放つような、著者の思いが、随所に強めに出ている本という側面もあるように感じた。

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