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セワ゛ストーポリ (岩波文庫)

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「セヴァストーポリ」を読んで考える

書籍名 : セヴァストーポリ
著作者 : レフ・トルストイ
出版社 : 岩波書店
発売日 : 1954/03
ISBN : 9784003262023

貴族社会と重ね合わせた幻想 (2017/08/22)

日本は、1904年に日露戦争を戦い、多くの犠牲の末にロシアの南下を退けた。なかでも旅順攻囲戦では、極めて多くの犠牲を強いられることとなったわけだが、その相手国ロシアは、更にその50年前にクリミア戦争を戦い、セヴァストーポリ攻囲戦で極めて多くの犠牲者をだした。今も多くの日本人が愛してやまないロシア人作家レフ・トルストイは、若き頃、セヴァストーポリ攻囲戦に砲兵将校として、第一線を経験、この「セヴァストーポリ」という小説を書いた。

「セヴァストーポリ」は、“1854年12月における”、“1855年5月における”、“1855年8月における”という副題のついた3つの作品からなり、それぞれに繋がりはない。

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photo : Pixabay

“1854年12月における”は極めて短い作品である。将校として戦地に赴く貴族が見た、まだ日常の生活が残るセヴァストーポリの風景や、繃帯所と訳された負傷兵の救護や遺体安置のために街の公会堂に置かれた施設、砲弾の飛び交う前線視察などが描かれる。

“1855年5月における”ではセヴァストーポリに集まってきた様々な将校たちを通して、過酷ではあるが、まだ一進一退の戦いを続けるセヴァストーポリの“真実”が描かれている。

“1855年8月における”は、貴族としての比較的安定した生活の中で“虚栄心”に駆られ、過酷な最前線であるセヴァストーポリに赴くコゼリツォーフ兄弟を主人公とした短編小説である。フランス軍によるセヴァストーポリ陥落までが描かれている。

セヴァストーポリ攻囲戦でロシアは10万人以上の犠牲を出し、その直後、関係国は和平へと向かうことになる。

私が若いころに読み感動したトルストイによる人間心理の生き生きとした描写は、100年と少し前の日露戦争、その相手国ロシアが、更にその50年前に戦ったクリミア戦争という経路を辿ると、「違い」という側面を浮き上がらせてくれるように思う。貴族たちの“虚栄”と、純朴で隷属的な庶民。常に貴族の視点で描かれているこの物語では“虚栄”が、一貫して意識されている。

その上カルーギンは、虚栄心、自分を光らせたい欲望、褒章への期待、名声の望み、冒険の魅力などに刺激されていた

こんな場面がたびたび出てくる。登場する将校は大抵“虚栄心”を中心に描かれる。対して下層の兵士は隷属的だ。

あとでもなんともなかっただよ。ただ皮をひっぱられて時に、何か擦りむきでもしたような気がしただけさ。なに、旦那、第一は、なんにも考えねえことでさあ ― 考えせえしなけりゃなんのこともねえだ。何事もはあ人間、考えるからおこることでさあ

日本でも戦争の記録を文字として残している方は、将校クラスが多いようだ。しかし今まで読んだ文章の中において、下層兵士と将校との関係を「隷属的」と読むことはできない。軍隊なので、指揮命令系統が極めて重要であることは間違いないし、かつて犠牲を強いる命令さえあったわけだが、それでも「隷属的」と読むことはできない。

私のようなものが天皇について語ることは有り得ないし、いくら学んでも本当の理解には達しないと感じる。しかしそれでも、長い歴史を天皇のもとに置いてきたこの国は、どうやら他のどんな国より、遥かにマシな日々を下層の国民でさえ享受することができていたということだけは間違いないようだ。

今、多くの日本国民は、世界標準が大好きなようである。であれば、手に持ったペンが、手を離すことで、地球に向かって加速度をつけて進むことが当然であるが如く、この日本は世界標準の混沌とした世界に染まってゆくのだろう。“子どもたちのため”という、表面上の善意に満ち溢れた圧倒的多くの方々により導かれる「過酷さ」に子どもたちはどこまで耐えられるのであろうか。

それにしても、若きトルストイによる豊かな心理描写は、後の大作の匂いを感じとることができ、なによりも自分自身を「悲劇の貴族」と重ね合わせることができる貴重な物語であった。ただ、自分自身が、隷属的な一兵卒として過酷な戦場にいることを想像さえしなければ。

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