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文字を並べて考える、少し根本的なこと

なぜ私はここに文字を並べ考えているのか、少し根本的なことを書きたいと思う。

私は、文化的にも経済的にも極めて貧しい層に生まれた。始まりは個人的な違和感だったのかもしれない。そして私は性分としてどうしても違うものは違うと言いたい、そんな性分でもあった。それでも、多分、違う環境に生まれれば今、必死に個人的な資産の形成に尽力していたのではないかと思う。私は逃げ切れる世代に属している。だから個人的資産を作る機会は多かった。他人の痛みを、自分の痛みとして感じてしまった。そんなことなのかもしれない。どうしても文字を並べて考えたいのだ。

ではどんな社会ならばいいのか。そんなことをもう少し考えたい、模索したいと思っている。新興宗教のグルは常に終末論を解く。戦争になるなどというと可笑しな人と見られがちである。でも、気が付けば国が滅びる条件が整い過ぎてはいないだろうか。

まだ、好景気が復活すると考えられていた時期にも、私は、どう考えても私利私欲を過度に主張する今の日本の姿がいつまでも続くとは到底思えなかった。

国が侵略されて、その時に何ができるのか。日本国民が離散し始め、その時に何ができるのか。他国の文化に飲み込まれて終了する。それでいいのだろうか。滅んだ後に何ができるのか。精神的国家の復活は必要ないのだろうか。あまりにも滅び行く条件が整いすぎているように見える。日本人はすぐに正義と言いたがる。ハーグに行けば竹島は取り返せると思っているようだが、近隣諸国では、侵略国家の日本を滅ぼすことこそが正義なわけである。

景気が良かった頃、営業成績が落ち込むと、遊就館に行けという先輩がいた。あそこに行くと今の自分たちは、戦争中よりはるかに恵まれている。彼らよりはずっと良い生活をしているのだから克己心を目覚めさせ、営業に身が入り成績が上がるというのだ。でも何か違うような気がしていた。改めて、今、遊就館について思う。国民は、亡国の道など気にもかけずに、私利私欲を求める。それは私如きが、何か言うことではないのかもしれないとも思う。でも遊就館に行くと、先代の方々は、ここまでしてこの国を守ってくれた。そしてそのおかげで今、自由を謳歌できているのである。その先代の方々に「おい良かったな」と言ってもらえるように、少しは動くべきなのではないかと思ってならないのだ。

戦後すぐの世代の方は自分たちがちゃんとやってきたという。そんなばかなことはあるものかと思う。後世の人が活躍できる環境を残すことこそが「ちゃんとやってきた」ということではないのか。なんだこのザマは。保守的と言われる人たちも、アメリカが卑怯なやり方をするから、日本の経済がボロボロになったなどという。護送船団方式が良かったなどというが、そのやり方で日本を守れなかったから今のザマがあるのではないか。

日本では高学歴と言われる人でも自らの仕事で、指示を待つ人が多い。国の政策にも指示されるがままに、極めて従順な人が多い。本当にそれでいいのだろうか。かつて「民の竈」で伝わるような統治は終わったのだ。かつて民が困れば税金を取らなかった。今、民が困っているときでも税金が取れるように躍起になっている。そして大震災の後に真っ先に出たことが増税である。本当に従順でいいのか。

チャイナの三国志を好きな人が多い。本当にそんな残酷な世界を再現したいのか。今、大正時代、戦前と同じではないかという気がする。経済活動であれば何をしてもいい、そんな空気が支配するが、であれば戦争が最も儲かる経済活動だ。本当にそれでいいのか。「少しは考えようよ」と言っても良いのではないかと思う。平和を唱え滅んでゆく、そんな美談もあるのかもしれない。もし本当にそう思うならば、自ら私利私欲のままの行動や、せこい振る舞いはするなと言いたい。通州事件や、尼港事件が、再現されてから一気に右傾化するのはやめないか。それは最悪の道ではないのか。「少しは考えようよ」と言いたい。

自らが恵まれた境遇に生まれなかった。だから余計なことを言うのかもしれない。快楽や安定を求めることだけが生きるということなのか。少しは考えてもいいのではないか。だから文字を並べて考えるのである。

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